2016年06月15日

映画『FAKE』は佐村河内守の映画ではない件について

images (1).jpg

『FAKE』は佐村河内守の映画ではない。私たちに向けた映画である。ここ近年の日本の報道、メディア、そしてそれに対しての私たちの意見はわかりやすい敵”を作り出そうとしているように感じる。ここでいうわかりやすい敵”というのは例えば不倫をした芸能人、過去を虚偽をしたコメンテーター、さらには今回テーマにされた佐村河内守もそうなのかもしれない。そういう人間に対して、私たちはどう対処してきただろうか?どういう行動をとってきただろうか?森達也監督は私たちがやってきた行動を誰よりも興味深く、誰よりも悲観的に観て、この作品を作り上げたのだと思う。

『A』そしてその続編にあたる『A2』から15年経って撮られた本作『FAKE』は先で言った2作品と基本的には同じ内容だと言っていいと思う。『A』『A2』ではオウム真理教に残った信者たちの生活、そしてそれを取り巻く環境を淡々と撮りながら観客に「何が正義で、何が悪か?」という事を観客に考えさせるような作品であった。そして『FAKE』も佐村河内夫婦の生活を淡々と撮影しながら、観客に「この人は本当に僕たちが叩いていたような悪人なのか?」という事を問いただす。特にラストの12分、森監督はある事”を佐村河内氏にやらすシーンはそのハイライトと言ってもいいかもしれない。

さて、『A2』から15年以上経ってなぜ森監督は『FAKE』という作品を同じような感じで撮影したのか。僕が思うに、佐村河内氏を取り巻く環境を見ると日本は『A2』が公開された2001年ごろと何も変わってはいない。いや、ひょっとしてたらそれよりも悪化しているのかもしれないのではと感じる。テレビのワイドショーや週刊誌を見れば不倫や虚偽などのニュースにあふれかえり、それを見た視聴者はそれを見て一斉に“叩く”。反対の意見があるならば、そういう人間すらも“叩く”そんな時代である。SNSというものが出来てから、特にmixiからTwitterという匿名性が高く不特定多数の人に発信でき、なおかつ全世界の他人反応がわかるものにSNSの主役が交代してからはこの風潮が強まった気がもする。そして、これはネットに限った話だけでもない。

例えばデモ。ここ最近だとSEALDsという団体も出来て10代から20代の若い子たちが参加するという事も多いのだが、そこに入る若者のいったいどの程度が今の日本の政策を理解し、安倍総理が退陣(やめた)後に“どういう日本にしていきたいのか?”という事を考えた上でデモに参加しているのか。世界に目を向けよう。アメリカ大統領候補のドナルド・トランプ。その支持者の一体何割が、またその反対に彼をバッシングしている人間の何割が彼の考える政策をちゃんと理解しているのであろうか。ちなみに、私は“アクションを起こしてはいけない!”と言っているのではない。アクションの前にちゃんと情報を精査した上で“自分の考えを持つ”という事をやれているのかと言っているのだ。そして、それこそが森監督がこの作品で一番伝えたいメッセージなのだと僕は感じる。

佐村河内氏を撮りながらも今の日本人に対して“考えろ”とメッセージを送る『FAKE』この作品が出来上がった今もなお森監督は日本というもの映し出す鏡を探しているのかもしれない。
posted by ゴリさん at 22:26| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月27日

海街diary

news_header_umimachimain.jpg

「この映画、何回でも観に行きたいな。」

映画を観終わった後の率直な感想である。この『海街diary』は鎌倉で住む四人姉妹の物語なのだが、大きな事件、どんでん返し、といった類の出来事は起こらない。私達が住むこの日常を淡々と見せてくれる。しかし、役者の演技と丁寧な演出、そして鎌倉と言う街と人が見せる魅力的な映像がこの淡々とした日常を映画にしてくれている。その感じで言うならば、不慮の事故で亡くなった長男の15回忌集まる家族の物語である『歩いても 歩いても』に似ているかもしれない。

この作品は細かな部分の演出が本当にうまい。例えば、四姉妹の普段着ている服や髪形。そして、服の脱ぎ方、歩き方、家の門を締めるか否か、ご飯の食べ方といった細部で姉妹の人間性が見えてくる。特に冒頭のシーン、次女が男の部屋から姉妹の家に帰るまでのシークエンス。服の着方や話し方、服のセンスから“外見上は綺麗で社交辞令もわきまえるけど、本質的にはちょっと男っぽくてがさつな所もありダメな男としか付き合ってなさそう。”って言う事がなんとなくわかる。その後、姉妹で食卓を囲むシーンで“三女は、女っ気はなくけど、どことなく自由奔放そう。”長女は“生真面目で長女としてしっかりしないといけない。”ということがどことなく感じられる。

もう一つお気に入りのシーンを紹介すると、長女が梅酒をお母さんに届けるシーン。久しぶりに帰ってきた四姉妹の母親。しかし、長女との心の溝は深く会えば喧嘩ばかり。そんな長女と母親が2人でお墓参りをした後、庭先の梅の話から梅酒をつけており、それを長女が取りに行くシーンで母親が

「すべるから危ないわよ」

これが序盤の方で長女があわてて家を出る次女に対して向ける「危ないわよ」言い方とフィードバックさせ、いくら心の隔たりはあろうとも親子であるという事が分かる感じになっている。

また、作品全体で描かれる鎌倉の風景のや四季の描写も良い。秋には紅葉がちらつき、冬には姉妹でこたつに入り食卓を囲み、春には桜のトンネルを自転車で駆け抜け、夏には虫が鳴く音に花火大会があってと四季折々の鎌倉の姿を綺麗に映し出している。そして、海猫食堂のおばちゃん、そこに通う喫茶店のマスター、ちかちゃんが務めるスポーツ屋の店長、すずちゃんの同級生、といった優しい人々が姉妹たちの魅力を最大限に引き出している。

“優しい”と言う事で思いだしたが、この映画はどこか前向きである。苦しい事や辛いことがあってもそれをサポートしてくれる人が必ずいるし、わだかまりがあっても前向きに解決している。「細かな人間描写」と「四季折々の鎌倉の風景」、そして「優しさ」この3点が合わさった時、『海街diary』は何度でも見たくなるような映画になったように感じる。多分またこの映画を見返すだろうし、気が付いたらあの姉妹の事をあの街の事を思い出す様な気がする。そう、映画が終わっても僕の頭の中では『海街diary』は続いている。
posted by ゴリさん at 20:41| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月21日

映画『セッション』に関して(ネタバレ)

poster2.jpg

もう、いろんな人が様々な批評・感想を述べているので(しかも凄い熱量で・・・)正直、「僕がこの映画について書かなくても、みんな観に行くだろ・・・」という気もするんですけどね。ちなみに最初に言いますが僕は『セッション』は映画としては好きです。ラストの約9分に関しても個人的には相当楽しめましたし。思わず声に出して「行っけ!やっちまえ!!」って言いましたし(笑)ただ、僕が言いたいのが「音楽映画」と言われているのがどうも腑に落ちないなと思っていて。

『セッション』のあらすじ
名門音楽大学に入学したネイマン(マイルズ・テラー)はフレッチャー(J・K・シモンズ)のバンドにスカウトされる。ここで成功すれば偉大な音楽家になるという野心は叶ったも同然。だが、待ち受けていたのは、天才を生み出すことに取りつかれたフレッチャーの常人には理解できない〈完璧〉を求める狂気のレッスンだった。浴びせられる罵声、仕掛けられる罠…。ネイマンの精神はじりじりと追い詰められていく。恋人、家族、人生さえも投げ打ち、フレッチャーが目指す極みへと這い上がろうともがくネイマン。しかし…。(『セッション』HPより引用)



さて、この映画で僕が言いたい事は以下の3点
1 約9分間のカタルシスは音楽映画としてのカタルシスなのか?
2 そもそもフレッチャーは悪役だったのか?
3 ラストカットで足りないもの


この3点について少しお話をしたいと思います。あと、一応今から書くことはこの映画を見たと言う事を前提に書きますのであしからず。


1 約9分間のカタルシスは音楽映画としてのカタルシスなのか?
まず、この映画の最大の見どころラスト9分間について最初に話をします。ラスト9分を見た感想で「楽しかった」「癒やされた」という反応は見かけません。一番多い反応は「燃えた」という感想でした。そして僕自身もこのラスト9分には燃えました。で、ここで考えてほしいのですが音楽を聴いて「燃える」という言葉はあまり使わないような気がします。よく使う場面はプロレスやボクシングなどのいわゆる“格闘技”をみてこの言葉を使うような気がします。すなわち、このラスト9分間は“音の格闘技”というのがとてもしっくりくるのかなと僕は思います。

そう、僕はこの終盤で音楽映画の要素よりも格闘映画の要素をものすごく感じたわけです。終盤、フレッチャーは期待で胸いっぱいのネイマンを音楽でズタズタに傷つけ、一度はステージを降りますが負けられないと奮起をして“あの行動”をとります。それは音を武器として悪役であるフレッチャーを倒す最後の手段でもあると同時に、ある種の暴走でもあります。ネイマンがフレッチャーに対する最後の反撃は『ロッキー』で14ラウンドKO寸前のなか不屈の精神で立ち上がりアポロに立ち向かうロッキーが投影するようなそんな気がしました。

でも、音楽は音を“楽しむ”と読みます。つまり、周り人を楽しませる、HAPPYにしてくれる物であっても、人を陥れたり、戦うためにあるわけではないと考えます。だから、この映画におけるフレッチャーの裏切り、そしてラストのニーマンの反撃という流れが出てきて最終的に和解するという流れは二人だけの物語であり、他の演奏者やこの会場にいた観客が音楽の力で幸せであったのかと考えると必ずしもYESとは僕はならないと思います。

そして二人が音楽を武器として格闘している事が描かれている以上、この二人にどんな結末があろうと僕はこの映画は「音楽映画」としてはどうだろうと思いました。『リンダ リンダ リンダ』『スインング・ガールズ』『スクール・オブ・ロック』この音楽映画には音楽で戦うではなく、しっかりと楽しむことが描かれていますし、周りの人たちは幸せを共有していたように感じます。

では、どうしてこの2人は音楽という物を武器にしたのでしょうか。そもそも、僕はこの映画で一つ納得できない部分がありましす。それが2である「そもそもフレッチャーは悪役だったのか?」ということです。

2 そもそもフレッチャーは悪役だったのか?
この映画のもたらすもう一つの側面としてフレッチャーのもたらす圧倒的なパワハラシーンが強烈な印象を残します。でも、こんな指導者は珍しくないんです。まず朝早くから深夜まで練習するなんて日常茶飯事ですし、流石にあんなに椅子を投げつけたりする人はいなかったのですが、指揮棒投げる人もいたし、マウスピースで頭叩いたりする指導者と噂では聞きます。

こんな事を書く私も吹奏楽をやっていた時(ちなみに中高大と9年くらいトランペットをやってました。)には指導者ではありませんが、ミスするようなもんなら、先輩に人格否定されるような言葉をバンバン浴びせられるし、バチはとぶは殴られて全身痣だらけになるまで指導されたりしましたが(笑)そして僕以外にも、こんな経験ってわりと沢山ある事だと思うんですよ。昨今は指導方法の効率化や体罰等の問題が厳しくなり、このような事は減っているとは思いたいのですが。。。

だから最初、指導者としてのJKシモンズを見ていると、個人的には“とても熱血な指導者”だなと思ったんですよ。確かに指導方法には凄く難はあるけど、それは生徒が今後音楽というジャンルで勝ち進むために技術と精神をイジメ抜いて鍛える、そんなやり方だと思ったんです。鬱で亡くなったのを交通事故で亡くなったと言ったのも自分のミスを隠したいわけではなく、自分の教え子で素晴らしい子がいて生徒たちに亡くなった事を言いたかった、鬱と言う事をいうと学生たちに音楽へネガティブな印象を受けるから交通事故と言ったと思いました。そもそも、プロになってから自殺したのであれば、それは指導者の責任ではなく“プロとしての重圧に負けた”って事ではないのかなと思います。

だから、ラストのあの悪漢に変化したフレッチャーを見て、自分自身が相当傷がつきました。だって、どんなことがあったにせよ教え子は普通可愛いもの。それを演奏会という場であんな罠を仕掛けるような人間は、音楽やる人間ではないと思いました。では、何でここまでフレッチャーが悪役になったのか。ここで考えてほしいのがこの映画は監督の実体験にまつわるものだと言う事です。

この映画は監督自身がドラムをやっておりプロを目指そうと努力していたが挫折してその経験がもととなったのがこの映画であった。そして、実際このフレッチャーみたいな指導者にコーチを受けていたとのこと。以前監督はインタビューにてこんなことを答えています。


Q:チャゼル監督はフレッチャーの暴虐無人ぶりをどのように思いますか?

チャゼル:僕は以前彼のような先生に習ったことがあって、そのお陰で僕の演奏は大分ましになった。でも人間的に彼のしたことを許すことはできない。この映画では、フレッチャーのやることなすことをできるだけ極悪非道で許しがたいものにしたかったんだ。実際、暴力的な指導というのが偉大な音楽家をつくるというジャズ業界の雰囲気を否定することはできないからね。

http://ciatr.jp/topics/21674


つまり、この映画でのフレッチャーは監督自身が昔教えられていた指導者の姿であり、僕が推測するに中盤までのフレッチャーは監督の経験に基づく者、終盤のコンサートでの彼は監督が経験した憎悪を集積した悪魔として存在ではないのかなと感じます。さらに言えばこのインタビューを見る限り、彼は音楽という物は楽しいものではなく、トラウマだと思っている様にも感じられました。だから、音楽映画として形式ではなく、格闘映画の形式にのっとってラスト9分間は悪魔を倒し、浄化させ最後には信頼する2人の関係を描いているのかなと思う訳で。しかし、監督自身も音楽をこのような描き方にしている事は正しい事ではないと気が付いているように感じます。この映画、ラストカットで本来あってもいいはずのものが無いんです。それが拍手です。

3 ラストカットで足りないもの
普通、演奏終わりに観客が拍手をする、スタンディングオベーションをするシーンがあってもいいように感じます。もし拍手があれば周りの観客が音楽で幸せになった姿が描かれて「音楽映画」になったのだと思いますが、この映画はキャラバンが終了すると同時に映画も終了します。エンディングについてはチャゼル監督はこのように語っています。


僕がイメージしていたエンディングと、実際スクリーンで映されたエンディングが違うもののように感じたんだ。多分思い描いていた時点では、まだ音楽そのものが影響してこなかったから。最後のシーンを見た人はその結末に対してちょっと嫌な気持ちになるかもしれない。でも同時に混乱させるような疑問も残すことができたらいいなと願っている。
http://ciatr.jp/topics/21674


つまり、このような議論が起こることはあらかじめ織り込み済みだったのだと思います。音楽を武器として使っている事、そしてそういうのは音楽として正しくあるべき姿ではない事、そしてその描き方に関しては観客に判断をゆだねるという意味で拍手(肯定)を無くしたのではないでしょうか。

長々と語りましたが、これだけ議論が白熱するという事はそれだけ面白いと言う事でありますし、個人的には『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』よりも面白いとは思いましたよ(笑)まだ見てない人は是非、自分の目で確かめていただきたいなと思います。
posted by ゴリさん at 03:03| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする